家族が集まったとき、決まって話題になるのが娘の幼稚園時代の運動会での話。
ごく低い平均台を歩いて渡るかけっこ競争の時、先にわたり切った娘はくるりとうしろを振り向いてもたもたしていた「なかよしのゆかちゃん」が渡り切るのを待って手をつないでゴールインをしたという、極めてのんびりした娘の話です。

当時そんな幼い娘の姿に競争心はないものの、幼稚園の先生方の日ごろの小さな教えが積み重なって、友だち思いの良い子に育てて頂いたとうれしく思ったものでした。

娘は成人してからも多くの友人たちと楽しく遊び、語り合い、就職先の上司にも信用厚くかわいがっていただいている様子などを見るにつけ、幼いころ体得した「待つ」という体験を自分の生き方のかじにしているのだろうと私は推察いたします。img116

私の「待つ」という体験は、わたくしの学生時代、デート相手は天候に左右されるエキストラのアルバイト学生だったので約束の時間よりかなり遅れることしばしば。
当時は今のように携帯電話で連絡し合うことがなかったので、不規則な待ち時間を過ごすのによく本を読んで過ごしていたものでした。
そして逢えば口角泡にして当時まだまだ古い規範が幅を利かせている社会へ、若さゆえの抵抗や反発心を語り合ったものでした。
残念なことに恋愛は成就しなかったものの、私の生き方の原動力になっているようです。

そんな時代から四,五十年たった今日では、驚くほど「待つ」ことの少ない、「待つ」ことが出来ない社会になりました。
昔味わった待ちかまえてとか、待ち遠しい、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ、待ち焦がれてなど。
こんな切ない思いは希薄になりつつあるようです。

インターネットの発達でスマートフォン(高機能携帯電話)やフェイスブックが幅広く普及したお蔭で、スピード感を持って気軽に不特定多数の人と人との新しい付き合い方が始まったからだと思います。
おかげで高齢の私でさえも待たずして若い方々とのつながりが出来、若い方々の生活ぶりも垣間見えて気分を若返らせていただいています。

古い時代を経験した老人が大きく変化した新しい時代を好奇心いっぱいに眺めながらゆっくり生きるのも楽しいものです。
どうぞ冥土の神さまお招きをもう少しお待ちください。(笑)