sakura「挫折」
私にはこの言葉がとても懐かしく、愛おしい。
というのは、青春のころの私自身の挫折体験を思い出したからである。

十歳の時終戦を迎え、我が家では父が戦死したので、母は祖父とともに昼夜を問はず懸命に働いた。
女性らしい楽しみなども諦め、抑え、ひたすら家業の再興を願って働いていた。

食糧難の戦後だったにもかかわらず、近くの郊外のお百姓さんのところへ買い出しに行くなど兄、妹の三人の子供たちにひもじい思いをさせないよう気配りも忘れていなかった。

そんなけなげな母の働く様子を目の当たりにして育った娘の私は母の後姿をまばゆく、誇らしげに思っていた。
やがて、成長するにつれ、母のように、自分以外の他の人にもしっかり貢献できるような女性になりたいと願うようになり、当時はまだ女性の4年制大学へ行くことはほとんどまれな時代だったが、大学への進学を夢見るようになった。
ところが職人かたぎの頑固一徹な祖父や、母は「女の子には学問はいらない」と猛反対。進学をあきらめざるを得ず、言いようのない深い挫折感を味わった。

だからでしょうか、そのころから人生は思うとおりにならないことに気付き、大学に行けなくても私の人生を私らしく、私の好きなように歩みましょうという思いが強く根付いた。

dendenそのころ愛読していた、山村慕鳥の
「人生はのろさにあれ のろのろと蝸牛(ででむし)のやうであれ」
という詩が、いまだに忘れられないでいる。

そののち、通っていた女子高の付属短期大学を卒業し、実家の家業を手伝いながらスキーに没頭したり、染織作家の真似ごとをして糸を染めたり、手機で帯を織るなどそれなりの青春を過ごした。
そして、お決まりの見合い結婚。伴侶となる人は商売屋の主(あるじ)となる人なのにお金の話は全く苦手、小説や美術骨董の話になると夢中になるような人だった。

子供も一男一女に恵まれ、失敗や喜びを人間らしく味わいながら、蝸牛さながら、のろのろと前方でなく空を仰ぎ、大地を蹴るのでなく足の裏で感じながら生きてきた、 あの時の挫折が、感性豊かにと生きる肥しになっていたから、かもしれない。